書籍出版の動機について / 牧野富太郎研究所

植物学者・牧野富太郎に関する人物研究、および伝承を目的としています。

牧野富太郎研究所について

『牧野富太郎の歌年譜』出版動機

牧野富太郎の歌年譜

牧野富太郎の雅号は、少年の頃寺子屋で『漢書』董仲舒伝にある故事、「古人有言、臨淵羨魚、不如退而結網」より学び得て、自らそれを「結網」と名乗ったものである。他にも「結網子」、「結網学人」、「結網生」等が、牧野の著書や自ら日本各地で揮毫した書幅や色紙や短冊等に見られる。

人間牧野富太郎を形成した根源は、やはり自らを「結網」と呼ぶことで魂を入れ、「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」という植物への学問心得を課し、自ら奮い立たせながら生涯掛けて貫徹しようとした執念と強靭な精神力にあったのであろう。その辺りに私は密かに感動を覚え、牧野富太郎の魅力を感ずるのである。

私は、「結網」の文字を目にしては、「淵ニ臨ミテ魚ヲ羨ムハ、退イテ網ヲ結ブニ如カズ」が頭に浮かび、それが心の中で重くずっしりと輝いている。また、「グズグズするな、先にやるべきことがあるだろう」と、自らに発破を掛け言い聞かせる事がある。この言葉は変容する現代の人間社会に問いかける戒めの様な気さえするのである。児童文学者の椋鳩十の言葉に、「感動は心(人生)の扉を開く」があるように、この漢詩を学んだ牧野少年は、正しく人生の扉が開いた瞬間であったのだろう。

私は2000年頃からこれまで約12年間、牧野富太郎という人物を深く知るために、それに関する著書を出来るだけ多く読み、新たな情報を求めながら現存する伝記やその類を読み漁ってきた。また古書取扱市場に見られる牧野富太郎の著書や発信書簡および揮毫の品々も購入して研究してみた。

牧野記念庭園には、7、8回足を運び、谷中霊園内の天王寺墓地にある牧野富太郎の墓やムジナモ発見の地等も訪ねた事があった。谷中霊園では序に牧野に関係する人物の、伊藤圭介や矢田部良吉、田中芳男の墓も見学して回った。そして田中芳男と言えば、出身地の飯田市に出掛けたり、また田中や牧野の師匠に当る伊藤圭介翁研究の為に、何回も名古屋市まで出掛けた事もあった。時には、田辺市の南方熊楠顕彰館において、「牧野富太郎と南方熊楠」展を見学した事もあった。

牧野富太郎が昭和20年5月から10月まで疎開した山梨県韮崎市の疎開先を探しに、二度も三度も出掛け、ようやく横森家を訪問出来たのである。

2011年には、牧野富太郎の郷里佐川町へ出掛け、牧野富太郎誕生の地、遊び場だった金峰神社、牧野が学んだ旧伊藤蘭林塾や名教館の址碑、牧野公園にある牧野家先祖代々の墓や牧野富太郎の墓、そして新旧の青山文庫等その周辺を歩いて回った。金峰神社の階段は急であった。現在の青山文庫脇にある牧野が幼少の頃拾った栗の木が大木になっていた。佐川町教育委員会(文化センター)では、牧野の生涯を物語るような大変貴重な資料をガラス越しに見学出来た。また、横倉山自然の森博物館、そして現在、(公財)高知県牧野記念財団の会員である私は、高知県立牧野植物園を見学し、多くの新情報を発見出来、有意義な四国旅行であった。

2012年暮れには、国立科学博物館で開催中の『植物学者牧野富太郎の足跡と今』を見学し、晩年の牧野富太郎の動画や肉声を聞く事が出来、そんな感激を胸に本著の執筆を加速させたのである。

牧野富太郎の特徴は、全ての点で並外れている事にある。例えば、桁外れの蔵書の量、草木の種類とその生涯を観察する為、より良い標品を求めての植物採集量と腊葉標本の膨大さ、植物学への投資金額の莫大さ、産んだ子供の多さ、自ら意識して映った写真の多さ、交友関係を伴う書簡の多さ、植物に関する情報収集能力の高さ、そして植物学者として自作した歌の多さは、スケールの違いに大変驚くのである。また、これ等の殆んどが正しく「赭鞭一撻」の精神を全うするものであった。

これを見ても牧野富太郎の研究課題は山ほどある。かと言って誰にでも出来るものでもない。中でも写真集は既に、『牧野富太郎写真集』(高知県立牧野植物園)として出版されているが、掲載料が少なくこれには個人的に不満を抱き、もっともっと多くの写真を載せ、牧野ファンを魅了するものであって欲しいと常々願っている。

もう一つの願いは、点在する歌(短歌、俳句、川柳、都々逸、里謡等)を何んとか一冊の本に纏める事が出来ないかと、数年前から密かに思っていたのである。そこで、歌人でも俳人でもない私が、それを担うと言う大逸れた行動に打って出たのである。一年位前より執筆構想を練り、2012年12月に入ってから本格的に執筆を開始し、遂に2013年1月15日にそれは完成した。そして願い叶って今回の出版に至ったのである。

私は和歌の嗜みもその素養も無く、歌の解説をうまく出来る自信も無い。だが敬愛する牧野富太郎が吟じた歌を自分なりに解釈し、その心情や情緒を探ることを、誰もが止める事が出来ないであろう。また、その解釈は千差万別であって良いと思えるのである。素人の解説と数多くの方から、ご批判が殺到するだろうが、兎にも角にも点在する牧野富太郎の歌の数々を一所一冊に纏め、本拙著にあるような大層な題名を思い切って附したのである。

牧野富太郎の場合、直面した内心の情や思いが即興で歌になる場合が多かったようである。都々逸には心情が素直に表れるが、俳句にはそれが無く、情緒も感じ得ないものが多々ある。これらを纏めるに当たり、特に、『牧野富太郎自叙伝』と『牧野富太郎植物採集行動録』(明治・大正篇及び昭和篇)が、座右の書となった。この行動録即ち牧野日記を漏れなく読むと、当日の記録の最後の方に、何か心地よい言葉に接し、よくよく読み返すとリズム感のある七七、七五の形式の都々逸に出会う事がある。その存在に気付き全篇に目を通す事により、より多くの歌を抽出出来たのである。その中でも都々逸の切れが一番よく感じられた。

牧野富太郎の著書に見られる個々の植物をテーマにした俳句は、俳句と言うよりは、短い言葉による五七五調の植物観察句(解説句)と呼ぶべき物である。それらの句を見ると、類似する句や前の句に関連する内容の物が多く見られ、単独の句として扱うには不十分な物が多く、中には結網学人の句とは到底思えないような物まで含まれている。また、ある植物に関する五首の俳句が存在すると、それらを全て含めないと、一つの植物歌として扱うに相応しくない物もある。

例えば、『牧野植物一家言』に見られる、「ヤマブキ」の項に、一首目「山吹に、実の生る事は、人知らぬ」、二首目「教育の、足りし今日も、人知らず」、三首目「山吹の、実が落ちたれば苗生える」、四首目「生えた苗、吾は実際、之を見た」、五首目「生えた、苗を仕立て見たい、吾願ひ」とあり、一首目、三首目は単独でも解説句として充分理解できるが、二首目、四首目、五首目を単独で取り扱うと、対象物の「ヤマブキ」が何処かに消え、解釈に困るのである。四首目、五首目だけを見れば、何かイネの苗でも生えたのかとも思えるのである。このような事例句は、第五部「牧野富太郎が生産した歌の数々」で取り扱う事として、一覧の歌年譜からは除外する事とした。尚本著で心掛けた内容を箇条書きにすると次のようになる。

<留意点>

  • 解説文は必要最小限に留め、歌は太字で目に付き易いようにした。
  • 筆者が現在確認出来ている歌は、牧野富太郎の製作年号に従い時代順に並べた。
    製作年号が不明なものは、「製作年不詳」とした。(製作年号に異論はあろうが、筆者独断によった)
  • 発見された歌は、そのままの字体で載せ、牧野富太郎が揮毫したままの字体を載せた。
  • 全く同じ内容であっても、味わいを残すために字体が違った物も載せた。
  • 牧野が付したルビはそのまま残し、カギ括弧で区別した。又読みにくい漢字や旧仮名遣いにはルビを追加した。
  • 巻末には歌年譜を配し、「牧野富太郎年譜」と対照出来るようにした。
  • 年齢表示は、『牧野富太郎自叙伝』に従い、「数え年」の表記とした。
  • 歌の先頭にある「●」(黒丸印)は、牧野富太郎が作った歌を示し、「〇」(白丸印)は、他の者が作った歌である事を示した。
  • 「牧野富太郎の歌年譜」の表の見方の留意点は、その項へ記した。
  • 第一部、第二部、第三部、第四部、第五部の、どこからでも読めるように構成した。

この本の特徴は、牧野富太郎が詠んだ歌の背景を探りながら、隠れた恋愛秘話及び疎開生活並びに他のエピソード、そして筆者の手許にあるごく一部の書簡解題をテーマに選び、時代の流れに沿って発生した出来事の歌を、製作年号に従い時代順に並べた所にある。ここでは同時に広く敬愛された牧野富太郎へ、「植物の神」として献げられた歌も若干取り扱ってみた。歌年譜仕立てにした事で、今まで見えなかったものが、一層くっきりと浮かび上がったケースもあった。

牧野富太郎がどのような時代にどのような背景で、どのような気持ちを抱いていたのか、幾許か感じ取れれば、本著製作の意義があり筆者の苦労も報われるのである。

読者の中には、まだこんな歌もあると情報をお持ちの方が多く居られるだろうが、一先ずこれを持って括(くく)りとする。出来得れば、その情報が私に滾々(こんこん)とわき出るように集り、更にこの書に磨きが掛る事を切望するものである。

2012年は牧野富太郎生誕150周年記念の年であった。この年に出版を決意するも、年を越してしまったのである。これまでライフワークとして、日本各地の図書館を活用し、得られた情報の収穫は大きかった。この研究に明け暮れた十二年間の中で、関係各位には本当にお世話になった。例えば牧野美智江氏は我が方が身勝手にした牧野富太郎へのお墓参りであったにも関わらず、丁重な礼状を下さった。牧野記念庭園訪問の際、牧野一浡氏からは色々ご指導を賜ることが出来た。疎開先見学の際、横森家の御主人で当時小学生であった横森義隆氏からは快く取材に応じて頂いた。吉川文庫資料閲覧において名古屋市立東山植物園の三浦重徳氏、牧野発白井光太郎宛書簡解読作業において東京大学大学院農学生命学科植物病理学研究室の山田昌雄氏、佐川町訪問に際してはNPO法人佐川くろがねの会・郷土史研究家の竹村脩氏、茅野貫一の取材において竹花瑞穂氏、都度牧野富太郎について情報を下さる牧野富太郎倶楽部の三永典子氏の各氏には、この場かりて感謝の意を表明するものである。

2013年4月24日  屋根に積もる雪を心配しつつ     漉川葵人

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