伝記を書く上で考慮した点 / 牧野富太郎研究所

植物学者・牧野富太郎に関する人物研究、および伝承を目的としています。

牧野富太郎研究所について

伝記(補伝)を書く上で、考慮した点

牧野富太郎は、「伝記を完全なものにするには自叙伝によるのが一番いい」と述べている。すなわち、牧野富太郎の伝記を書くなら、牧野自身が著した『牧野富太郎自叙伝』を基にして様々な人が、書きなさいと示されたのである。その上で、「日本人が伝記を書くと、どうも美点ばかり書くという弊があります。例えば伊藤圭介(幕末・明治の植物学者九十九歳で他界)の伝記にしても、ほめちぎって書いてあって少しも欠点が書いてありませんが、それではいかぬので、伝記は学者などに読ますことはよして、しろうとに読ませて士気を鼓舞(こぶ)するようにしたらよろしい。なるべくたくさん図をいれて、文章も平易にし、厚くない読み易いものにすることがひつようですね。」とも述べている。ただ、この『牧野富太郎自叙伝』は、果たして本人の編集によってなされたものか、疑う点が多く見受けられる。

『牧野富太郎字自叙伝』は昭和31年12月に発行され、三部構成により本全体の約半分にあたる第一部が純粋な「自叙伝」となっている。第二部は「牧野混混録」で、第三部は「父の素顔」として、娘の三女鶴代が担当している。その第一部の自叙伝は、牧野富太郎数え79歳の昭和15年に一応脱稿したと見られ、その後、昭和21年に、「八十五歳のわれは今何をしているか」を、次いで昭和28年9月には、「花と私 ―半生の記―」を付け足している。その後の編集は誰の手によるものか不明となっている。

牧野富太郎の自叙伝

今回本著出版にあたり、他の伝記本と『牧野富太郎自叙伝』との成り立ちについてその関係を探(さぐ)り、牧野富太郎の生前に出版された伝記が、どのような思いで出版されたか、それらの序文やあとがきを改めて読んで見た。対象としたのは、山本和夫著『世界の至宝 牧野富太郎』(初版・昭和28年10月)、中村浩『少年少女 新伝記文庫 牧野富太郎』(初版・昭和30年4月)、上村登『牧野富太郎傳』(初版・昭和30年11月)である。

【一】 筆者は山本和夫の著書『世界の至宝 牧野富太郎』(初版)を所有している。その序文「この本を読む人に」を見ると、山本は本物の牧野博士の伝記を書いて、「その地方その地方の牧野さん」に送るために、この本を書いたと述べている。特にくどい説明書きは見当たらない。

牧野富太郎についての本

【二】 筆者は中村浩の著書『牧野富太郎』(第五版)を所有している。その「まえがき」を見ると、中村は牧野富太郎から直接話を伺い、掲載した写真は牧野富太郎から借りたと述べて、「この本の表紙にでている牧野博士のお顔をみながら、先生からじかにお話をうかがっているつもりで読んで下さい。」と記している。そして本文では、「わたくしは昭和五年から昭和二十五年に至る二十年間東京大学の植物学教室におりましたので、牧野富太郎博士をめぐる学界の情勢にも通じていると自負しています。界の情勢にも通じていると自負しています。こういうわけで、牧野富太郎先生の伝記を書く資格をわたくしはもっているひとりだと考え、あえて本書を執筆した次第です。」とし、「あとがき」では、「生前牧野博士はこの出版をたいそう喜ばれ、病床で目を通して下さいました。この伝記は、牧野博士がわたくしに物語って下さったいわば「自叙伝」ともいうべきものです。内容はできる限り正しく伝えたつもりです。」と述べている。これをまとめてみると、これは、これから書く者へ、この本を基本として書くように「警告」を発した強いメッセージとも考えられなくもない。また、「「自叙伝」ともいうべきもの」と言っているため、牧野の自叙伝と深い関わりを持っていることは明らかである。

【三】 筆者は上村登の著書『牧野富太郎傳』(初版)を所有している。上村登は、同著の「序」において、牧野富太郎の偉大な姿を、自らの心に映る「輝く巨大な炬(きょ)(筆者注釈・たいまつ、かがり火)」に例えて、その炬を三十年間心の糧としてきた。そして昭和20年の終戦直後に、牧野富太郎の人物像を書き綴ったと述べている。また、その稿本(筆者注釈・下書きや草稿を示す)は十年近く上村の書架にあって、それが世にでたものが、『牧野富太郎傳』である。すなわち、昭和20年には、すでに牧野富太郎伝がほぼまとまっていたことになる。従って牧野の「自叙伝」が昭和15年完成とみれば、これを基本とし、練り合わせたとしてもおかしくはない。また、今まで一番古い伝記本が山本和夫であると思っていたが、むしろ上村登が認めた記録の方が最も古いことになる。『牧野富太郎自叙伝』の「牧野富太郎博士年譜」は、上村登の『牧野富太郎傳』のそれと酷似(こくじ)(昭和29年12月、「感冒(かんぼう)」(正)が、「寒(?)胃(×)」(誤)となり、この誤植までも引いている)している。ちなみに『花と恋して 牧野富太郎伝』で上村は、「感冒(かんぼう)」か「寒冒(かんぼう)」(昔の人は、寒冷刺激によって起こる風邪として「感冒」と区別して用いた)か、どちらか事実関係に不安を残したためか、この言葉を排除している。これ一つ見ても上村が牧野の自叙伝に深く関わっていることは明らかである。出版に至るまで三者とも牧野富太郎と度々すり合わせたと推察する。山本はちょっと経歴や系統が違うため何ともいえないが、中村と特に上村は牧野富太郎との間において、諸事情に精通し心得た上で書いたことが窺える。ついでに記しておくが、この二人は自叙伝のみならず、同年(昭和31年)に牧野富太郎の死期を察してか、慌(あわ)てるように出版された二冊の本の編集にも関わっているようだ。それは『随筆 植物學九十年』と『草木とともに』であり、牧野富太郎の病臥(びょうが)の時期とも重なり、牧野自身の単独編集とは到底思えない。この二冊は自叙伝の内容と重なる点が多く、巻末には『牧野富太郎傳』と酷似(こくじ)した年譜や掲載資料が、自叙伝と同様に『草木とともに』にも採用されている。これらは牧野鶴代を含めた特定の者による編集と推察する。また、その「はじめのことば」は、牧野富太郎の文章表現とは似ても似つかないことを参考として記(しる)す。ちなみに「感冒(かんぼう)」の文字は訂正されている。

『花と恋して 牧野富太郎伝』(平成11年)において上村登は、その「あとがき」で、昭和30年に『牧野富太郎傳』を書いた時のことを回顧し、「もう少し客観的・第三者的立場で書くべきであったと思われることもあったが、評伝的な表現はさけて純伝記的表現で書いた。その時から四十年たった今は、著者自身の牧野先生に対する見方も考え方も変わってきたところもある。その後いろいろな人が牧野先生について書いていることに、私にはどうも正しくないと思えることも少なくない。最初に『牧野富太郎伝』を書いた著者として、できるだけ正しい「牧野像」を書き、後世に伝える責任もあるように思う。が、ここで直ちに評伝的なものを書くことには著者の心理的抵抗が少しあり、前の『牧野富太郎伝』との間にワンクッションおきたく、そう思って書いたのがこの本である。」と述べている。また、本文では、「うっかりと牧野博士の生涯史の一部が誤って後世に伝えられることがないように無責任な言動は慎むよう心がけなければならない。」とも述べている。これもこれから書く者へ自ら思い余って「警告」を発したものとも考えられなくもない。

筆者は牧野富太郎の人物像について十五年間を費やし専門的に研究してきた。そして上村登と同様に牧野富太郎の人物像を感じとった当初と比較すると、牧野富太郎への尊敬の念は加速しつつも、見方も考え方も大きく変わってきた。ただ、それは牧野富太郎の人物像を肯定も否定もするものではない。むしろ伝記により経歴や業績を分かりやすくきちんと伝えると共に、人間らしさ(くささ)もきちんと伝えることによって、きっと身近な存在に感じられ、その偉人ぶりも一段と輝くものと信ずるのである。そのためにも筆者は上村登や中村浩が発した警告に屈せず、作品に対し他からの批判も覚悟のうえ、牧野富太郎の人物像を長年研究した証(あかし)として、筆者のとらえた「牧野像」をつづって見たのがこの本である。ただ、業績の記述について、著者は植物の専門家ではないため、読者に正確性を極め伝えたかというと、そうではない点もあろう。そこは、これまでに出版された他の書をおおいに参考にし、引用した部分も多々あることを前もって記(しる)しておく。

所詮(しょせん)、筆者も上村や山本、中村の伝記本を参考にして書いている。その意味では、それらの影響も多少受けているだろうが、とにかく美点欠点の偏(かたよ)りをなるべく避け、筆者が現在感じとっている牧野富太郎の人物像をもって補伝として記(しる)したつもりである。ただ、このまま研究を続けていけば、これから先にまた違った牧野富太郎像が出現するのかもしれない。その時はまた新たな気持ちで書いてみたい。

2014年01月18日           漉 川 葵 人

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