書籍出版の動機について / 牧野富太郎研究所

植物学者・牧野富太郎に関する人物研究、および伝承を目的としています。

牧野富太郎研究所について

『牧野結網補伝Ⅰ』(畢生の二大事業と遺品のゆくえ)出版動機

牧野結網補伝Ⅰ 畢生の二大事業と遺品のゆくえ

牧野富太郎は〝何時(いつ)までも生きて仕事にいそしまんまた生まれ来ぬこの世なりせば〟と詠(うた)い、「学者は死ぬる間際(まぎわ)まで、すなわち心身が学問に役立つ間は日夜孜々(しし)(筆者注釈・=熱心に努め励むさま)としてその研鑽(けんさん)(筆者注釈・=深く研究すること)を続けねばならない義務と責任とがある。畢竟(ひっきょう)(筆者注釈・=結局、究極)それが学者の真面目で学者の学者たる所以(ゆえん)はそこにある。」(『牧野富太郎自叙伝』)という。

牧野富太郎は、数え96歳の生涯を閉じるまで有言実行身を以ってその範を示された。筆者感服致すとともに、牧野富太郎の魅力の一つとなっている。牧野富太郎は、没する寸前までどのような仕事に励んでいたのであろうか。

牧野富太郎が数え79歳の時に書き記した、天命に課せられた二大事業とは何か。その一つは、自らが蒐集した五十万点におよぶ〝標本の整理〟である。もう一つは、青年期来の悲願となっている〝日本植物図説の出版〟であった。標本の整理完了に伴い、その一部は日本植物学界のために遺し、他の一部を欧米の植物学界へ寄贈する。そして、出来れば日本国家として標本館を建て、そこに収容することを念願していた。また、日本植物図説の出版は、明治21年11月発刊の『日本植物志図篇』を処女作とし、以来数々の「日本植物志」に挑むが全てが中絶となり、その完成が悲願となっていた。それは遂(つい)に昭和15年9月に『牧野日本植物図鑑』として出版された。しかし、牧野富太郎の最終目標は違う所にあった。それは植物図への彩色を目指し、広く愛読される便利なものにしたいと念願していたのである。果たしてこの二大事業の念願はどのような結末を迎えるのか本著で解き明かしたいと思い、執筆をこころみたのである。

自叙伝と言うと、自らを回顧し記憶に基づいてその人生や生涯を記述したものであろうが、本著で取り扱ったこの二大事業については、自叙伝に筆を執りながらも現在進行形にあった。従ってこの結末が不明なまま自叙伝は終わっている。生前に出された伝記も存在するが、当然それには触れていない。また、没後出された伝記も生前に出された伝記を参考とする所が多く、それに触れているものは数少ない。そこで牧野富太郎研究者の一人として、この行く末を書き伝える使命があると信じ、思い切って書くこととした。

本著は三部構成とした。自叙伝を読む限りでは、牧野富太郎が郷里土佐(とさの)国(くに)から明治17年に二度目の上京を果たし、東京帝国大学理科大学の植物学教室に出入りを許されてから、明治26年に助手を拝命するまでの9年間の行動がわかりづらく、そこに発生する青春物語も不透明なため、それを「牧野富太郎の人物像」として第一部にまとめた。それは二大事業の基礎を築く大切な時期でもあり、もしもこの機会をつかむことが出来なかったとしたら、牧野富太郎の名は知られず、伝記は存在しなかったとも言えなくもない。次いで主題の牧野富太郎の「畢生(ひっせい)(筆者注釈・一生涯)の二大事業と遺品のゆくえ」について、本著第二部にまとめた。第三部は、没するまでの長い闘病生活や郷里佐川町への揮毫(きごう)の品を中心に、「牧野富太郎の最期(さいご)」についてまとめてみた。いわゆる牧野富太郎の自叙伝や過去に出た伝記の補足版としての位置づけにより、「牧野結網(けつもう)補伝」とした。

2014年6月10日           漉 川 葵 人

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