書籍出版の動機について / 牧野富太郎研究所

植物学者・牧野富太郎に関する人物研究、および伝承を目的としています。

牧野富太郎研究所について

『牧野結網補伝Ⅱ』(書簡解題・白井光太郎編)出版動機

牧野結網補伝Ⅱ 書簡解題・白井光太郎編

最近読んだ伝記の中に、スウェーデンの放射線物理、放射線生物、放射線防護学の創始者であるロルフ・シーベルトがある。そのHans Weinberger著・山崎岐男訳『放射線防護の父 シーベルトの生涯』(1994年)の本の扉に興味深い言葉が見られた。それには「既に見たものだけ毎度見ている。以前に隠されたものとか、隠れた事実が明るみに出てくると、全体像が変貌する。伝記を書く人は誰でも、死者が墓から立ち上がり軽蔑の眼で見つめれば、自分の書いたものが目茶目茶になるという考えになってしまう。(Olof Lagercrantz「読み書きのコツ」1985年より)とあった。

筆者はこの言葉に直面した時、瞬間的にひかれるところがあり、同情と感動とが入り混じり妙な感覚に陥った。これまでに言い表せなかった自らの心の内を代弁して貰ったような気持ちになった。そしてそれは筆者も伝記を書き下す一人として、必ず接する障壁でもあったからである。

伝記を書き下す際事実を曲げてあたり障りのない綺麗な文章表現に仕立てることや、どうとも取れる曖昧な表現に書き変えることはいくらでも出来る。だがしかしこれを一回でも行ってしまうと、現在とらえている対象とする人物像全体にゆがみを生じて仕舞う。そして世に出そうとする一書その物が不本意な結果に終る。またそれがいつまでも心に残り、世間の評価を気にすることになる。するとそれは本来伝えたかったこととかけ離れ、伝記の的確性を欠くこととなり兼ねない。逆に事実をそのままに書こうとすると、このような記述を将来へ残してもよいのだろうかと考え始める。そして死者の顔と功績が頭をよぎり負の抵抗が邪魔をし始め、筆者の内心までが揺れ動かされる。それは墓場からの使者との格闘であり、葛藤が何日間も続くことがある。そういう著者の内心を的確に表現した言葉であるように思えたのである。

偉人と称され伝記に登場する人物は、普段人間としての暮らしぶりは全く他の者とどこも変りがなく、人間臭さも持ち合わせていることが多い。だが科学者として見た場合には天才的な頭脳を兼ね備えた強靭的な精神の持ち主で努力家であることが多い。それゆえに本来あるべき伝記は、人間として、科学者としての両側面をとらえたものであって、出来るだけ著者の捉えた真の像を伝えるべきではないかと考える。

牧野富太郎の場合、生前に書き記した初出の「牧野富太郎自叙伝」(1939~1940年刊行、白柳秀湖編集主幹『日本民族』)が基本となり伝記が仕上がっている。その後その自叙伝は編集され牧野富太郎著『牧野富太郎自叙伝』(1956年、長嶋書房)として出版されている。だがしかし全く同じものが転載されているわけではない。例えば、1956年後発の自叙伝の「第一の受難」、「博士と一介書生との取組」、「浜尾総長の深慮」、「圧迫の手が下る」、「池長植物研究所」の項目が、初出『日本民族』の自叙伝では、「大学を追はる」、「大学講師として復活」、「さしのべられた暖き手」の項目とすり替わっている。中身を見ると「大学を追はる」の項目に「松村教授は私を邪魔ものにし、櫻井学長に焚付(たきつ)けて遂に私を罷免した。・・・・松村教授は元来決して悪い人間ではなく、寧(むし)ろ極めて人が善いのだが、側から焚(たき)つけられるとその気になり易い人だった。平瀬作五郎氏や某氏等は、その焚付(たきつけ)役(やく)だった。」とか、「大学講師として復活」の項には、「矢部・服部・両君の尽力で、私は再び大学に戻ることが出来た。今度は大学講師として復活した。松村教授は私を連れて櫻井学長のもとを訪れ、講師となる挨拶をした。講師となると、月給三十円余となった。」とか、「さしのべられた暖き手」の項には、久原房之助と池長孟とのどちらからの援助を受けるかに際し、「新聞社からは、久原氏は金はあるが家が組織だっていて自由がきかぬ嫌いもあるから、多額納税者の池長氏の方が何かと好都合かも知れないとのことで池長氏に援助をうけることになった。」というようにその理由が精しく述べられている。これらは筆者無の情報であった。このように歴史を調べると隠れた事柄が明るみになることがある。

最近では牧野富太郎が発信した書簡の解題が各地で報告されている。その中に新たな情報を発見することもある。既に出版しシリーズ化された漉川葵人著『牧野結網補伝①』において、牧野富太郎略年譜の昭和2年の部位を一部『牧野結網補伝②』以降において訂正しなければならない。その情報元は『陸前高田市立博物館紀要第四号』(1999年、陸前高田市立博物館)の熊谷太民著「鳥羽源蔵宛の牧野富太郎の書簡の解読」によってであった。その昭和2年11月20日の牧野富太郎発鳥羽源蔵宛書簡に、「・・・明二十一日に出発します二十三日札幌に居りましたら帰ります・・・こんどは急の用でもあり、且つ荊妻が大学病院へ入院して居りますので、いろいろ費用が入りますので北海道行きは殆んど無銭旅行式です。それ故宿屋へは泊まれませんので、若しお構いなくば一晩貴家へ泊めて下されますまいか、・・・」とある。これまでに自叙伝で知り得た情報では、マキシモヴィッチ生誕百年記念式典に出席して講演するための北海道行きは、同年12月23日と記憶していたが、真実は11月23日であった。掲載月が間違っていたのである。慌てて『牧野富太郎植物採集行動録 昭和篇』を見返すと、11月21日出発し、23日にマキシモヴィッチ生誕百年祝賀会が挙行され、26日まで滞在した模様であった。それから上村登著『牧野富太郎傳』(1955年、六月社)を見ると昭和二年十二月二十三日になっていたものが、同氏の著書『花と恋して 牧野富太郎伝』(1999年、高知新聞社)は、昭和2年11月23日に訂正されていた。このように書簡の解読が行なわれ、互いの日記が整理されたものが存在すると、更に歴史的な新たな事実が表面化してくる。その意味では『牧野富太郎植物採集行動録 昭和篇』は筆者の座右の書となっている。これまで牧野富太郎のエピソードとして無銭旅行が多かったことの知識はあったが、この解読文によりそれも事実として認識できた。

このように書簡の解読や偉人の日記が整理され世に出ることは大いに意義があり、登場する歴史上の人物の像なり、立派な功績を裏付ける真実が現れることになる。その意味では筆者にとって牧野富太郎に関わる書簡の解読が今後さらに進むことを望んでやまない。筆者は幸運にも東京大学大学院農学生命科学科植物病理学研究室の山田昌雄氏と同氏著『日本の植物病理学の草創の時代と、白井光太郎の生涯』(2009年)を照会したことから知り合い、牧野富太郎発白井光太郎宛書簡の解読作業を行う機会を得た。そして2013年には山田昌雄氏が主幹した『白井光太郎日記』(私家版、2012年、郷間秀夫編輯・発行)を入手出来たのである。それはこの度発行されることとなった本著『牧野結網補伝②』の第一部において、牧野発白井宛書簡の解説に大いに役立ったのである。その解読作業(封書十三通、ハガキ十九通)に際しては、目黒区所在の白井光太郎の長男である秀雄氏の旧宅から発見され、現在東京大学大学院農学生命科学科植物病理学研究室に所蔵されているものを、山田昌雄氏のご厚意があって閲覧できたことをここに記し、心から感謝を申し上げる。

また、第二部で取り上げた吉川文庫資料の牧野富太郎発吉川芳秋宛書簡閲覧(封書七通、ハガキ三十通)に際して、名古屋市立東山植物園において三浦重徳氏に度重ねてお世話になった。そして第三部で取り上げた大田栄太郎文庫(第二大田文庫)の資料閲覧において富山県立図書館の古澤尋三氏にお世話になったことに感謝を申し上げる。

2014年10月8日           漉 川 葵 人

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