牧野富太郎人物像 / 牧野富太郎研究所

植物学者・牧野富太郎に関する人物研究、および伝承を目的としています。

牧野富太郎人物像

植物学者怪物伝の起源

本人いわく生まれつき草木が好きで、自らを「植物の精」あるいは「植物の愛人」と名乗り、生涯堂々と貧乏と学問との間に立って植物と共に生き、最期は「植物と心中」した男がいた。

その男、「朝夕に草木を吾れの友とせば こころ淋しき折りふしもなし」、「一生を貧乏で暮す富太郎 富ん太郎とはとんだ貧乏」、「虎なんだ吾れは万里の薮(やぶ)くぐる」と詠い、日本全国の山野を跋渉し植物を採集する。そして、「草を褥(しとね)に木の根を枕 花と恋して九十年」と96歳の生涯を遂げたのであった。その人物こそ広く敬愛された植物界の巨匠・植物分類記載学者「牧野富太郎」である。

牧野富太郎は何でも欲しい物は手に入れ、何でも自分でやらねば気が済まぬ性格、頼まれたことは少しもやらず、頼まれないことばかり夢中になる第一人者と人は云う。また、生活観念に乏しく、いつも楽観的な性格でもあった。更に、普段は子煩悩で妻子には実に優しかった。だが、突然怒り出して、ちゃぶ台を引っくり返すという驚くほどのカンシャクもちでもあった。外では気の良いひょうきん者で、お茶目ないたずらをしたかと思えば、花柳界好みの粋人で、精力絶倫の性癖もあった。一言でいえば、自制心に乏しいわがままお坊ちゃまと言う所だ。一方、体に宿る土佐人気質「いごっそう」魂(気骨のある頑固者)が、生涯を通し彼を味方した。これらの性格が生涯を通して、良くも悪くも色々な問題(物語)となって現れてくるのである。

職業や業績面から見た場合、常に将来の構想を抱き、洞察力に優れた情報通で、草木の通人(植物の神)として、その植物分類記載学者で植物画家でもあった。そしてそれらの普及と啓蒙を日本全国に図った生涯学習推進者としても名高い人物である。従って、牧野富太郎が遺した二大功績は〝記載学〟と〝教育普及〟と言えよう。

牧野富太郎は生涯13人の子供をもうけた。生まれは造り酒屋の倅で裕福ではあったが、その財を全て使い果してしまう。店が破綻してもその癖は直らず、お金もないのにどしどし本を買い求めた。その結果、本も植物標本もどんどん増えて行く一方であった。そして年末になると必ず大きな家を借り求めて引っ越しを繰り返す。その数18回とも、30回とも云われている。明治26年(32歳)に大学の助手となった時の給料15円、明治45年(51歳)講師になって給料30円、昭和14年(78歳)に大学を辞した時の給料75円であった。この薄給には生涯悩まされ、大正14年頃に漸く12円上げてくれた時、牧野は「鼻糞と同じ太さの十二円 これが偉勲のしるしなりけり」と吟じ皮肉った。

昭和32年に生涯を閉じるが、何と驚く事に、遺した植物標本50万点、植物画1万数千点、蔵書45,000冊である。どうしてこんな事が成し得たのであろうか、また、それらは今どうなっているのであろうか、その辺りを本著で解き明かすことにする。

牧野富太郎を語る時、その偉大性を示す「世界に誇る」とか「世界の」等の冠が必ず付く。また、牧野は日本植物学会の父とも仰がれ、無冠の大植物学者、植物分類学の泰斗、植物界の至宝、東洋のリンネ、大泉の神様、土佐の傑物等の異名があった。一方、生涯貧困にあった牧野には、「赤貧の」とか「清貧の」とかの冠が付けられ、その植物記載学者に「篤学の」とか「不遇の」が更に付く。これらの形容した表現を見ただけでも日本の伝記に登場する偉大な人物であった事が窺えよう。

こうした牧野富太郎の人生の原点と底辺となったものは何か。それは、11歳頃に学んだ漢詩に感動し、自らの号を「結網(けつもう)」と名乗りを上げ、人生の扉を開いている。18、9の頃に小野蘭山の『重訂本草綱目(ほんぞうこうもく)啓蒙』を買い求め、実地で植物を研究している。この著書が牧野富太郎を動かす衝撃的な出会いとなった。そして二十歳の時には、目標達成の手段として植物学への十五カ条の学問心得「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」を自らに課している。即ち、「結網」、「重訂綱目啓蒙」、「赭鞭一撻」の三点セットが、人間牧野富太郎を作り上げた根本となっているのである。

その目標とは何か。当時日本には「日本植物志」が無く、それを作ろうというのが牧野富太郎(23歳)の素志であった。そしてその処女作が、明治21年(27歳)出版の『日本植物志図編』となり、明治33年(39歳)には『大日本植物誌』を発行し、牧野富太郎の「いごっそう」魂が開花し次から次へと植物に関する雑誌や図鑑などを著して行く。また、時々自らを回顧し、「赭鞭一撻」の精神を将来貫く事を再確認するのであった。そして牧野富太郎の集大成ともなる名著、『牧野日本植物図鑑』を生んだのである。このように若くして理念やビジョンを持ち生涯通全うした事が、偉人と称される背景である。

もう少し詳しく見て行く事にする。牧野富太郎は、少年の頃伊藤蘭林塾で『漢書』を習い、董仲舒(とうちゅうじょ)伝にある故事「古人有言、臨淵羨魚、不如退而結網」を学んだ。号の「結網」は、その最後の二文字からとったもので、「臨淵羨魚、不如退而結網」とは、「淵(フチ)ニ臨(ノゾ)ミテ魚(ウオ)ヲ羨(ウラヤ)ムハ、退(シリゾ)イテ網(アミ)ヲ結(ムス)ブニ如(シ)カズ」と読む。それは、「岸辺に立って魚を採りたいとただ眺めているのでは何もならないので、先ずは家に戻って網を編むべきである」と諭している。網が無ければ魚は獲れずと教え、先ずもってやるべき行動を的確に示したものと言える。感動した牧野少年は、この教訓を原点として、植物学大成への大志を抱き人生の扉を開いたのである。号には他に、「結網子」、「結網学人」があり、それぞれ単独又は「結網学人 牧野富太郎」、「牧野結網」のように用いられる。

赭鞭一撻 結網子 稿

この「赭鞭一撻」は、植物学の大成を目指し、恐らく三日三晩自問自答し、練り上げたものであろう。そして植物学を志す者への提言でもあり、応用すれば現代社会でもあらゆる分野に通ずる心得と言え、これを自らの職業に置き換え編集すれば、これから起業を目指す青年の目標となる立派な心得が出来上がるであろう。

「結網」の号といい、「赭鞭一撻」の心得といい、これだけの理念やビジョンがはっきり持てた人物であるから、仮に家業の造り酒屋を継いで営んだとしても千客万来、商売は繁盛したに違いない。ただ、本人全くその気がなく、生涯植物の学問に打ち込む事を決断したのであった。

青年期から壮年期にけけての牧野富太郎と交わった主な人物の年没年表

牧野富太郎行動概略年表8明治17年~26年

» 牧野富太郎行動略図表(PDF)

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