牧野富太郎人物像 / 牧野富太郎研究所

植物学者・牧野富太郎に関する人物研究、および伝承を目的としています。

牧野富太郎人物像

植物の精が好んだ自慢の歌

牧野結網が生産した歌の数々と感想

牧野富太郎の歌年譜 著者:漉川 葵人

牧野富太郎の歌年譜
漉川 葵人 著

筆者は今から一年位前の2013年4月に、牧野富太郎の歌をあちこちからかき集めて、『牧野富太郎の歌年譜』を著し、その中に500点位の歌(和歌、俳句、川柳、都々逸など)をまとめて紹介した事があった。同著初版の改訂版として、第二版を2014年中に出版予定。

牧野富太郎は好んで歌を即興で詠じ、その場の求めに応じて揮毫する事も多かった。地方に出かけると必ず、「先生ご自慢の歌を一つ揮毫を・・・」と求められる。その為にも揮毫の準備もあらかじめして、旅に出ていた。

牧野の親友の内、恩田経介は、牧野が都々逸などをつくって揮毫する時にはよく、「岸屋の富」と署名したと云う。また、原田三夫は、牧野は酒もタバコもやらないが、親しい者らには常に冗談を飛ばし、宴席では牧野屋富子と名乗り自作の都々逸「草を褥に木の根を枕 花と恋して 五十年」等を唄わせて喜び、また、それを好んだと云う。

牧野富太郎の祖父・小左衛門、祖母・浪子は、和歌を好んで詠んだ。そして牧野郷里佐川の領主深尾家の歌会にも出入りした。牧野の吟じる歌の素養は、その祖父母より譲り受けたものであろうか。筆者は浪子が書いた和歌「諸人の飽かぬ色香を幾千代の 春もかをらん花の写し絵」(花見の宴において)の短冊を拝見した事がある。牧野富太郎いわく、「都々逸は稽古した事はないので、ただ真似をするだけで、自分の興に乗じてこしらえてみる程度である。」また、「お師匠さんをとらず、俳句なら俳句の有名な本を年季を入れて読んで、芭蕉はどういう風に詠んだか研究する。そして自分の歌をつくり、新機軸をだす。」更には、「都々逸、川柳、和歌、漢詩には、それぞれ特色があるから、入用に従って口から出て行く。それによって修行を積まなければならない。」と晩年語っている。

面白いもので、牧野が祖母より歌の素養を受けたように、牧野の娘三女の鶴代も親の血を引いたようである。鶴代は俳句や和歌を詠み、母壽衛から手解きを受けた三味線はかなりの腕前であったと云う。興が乗ると小唄や都々逸など弾いていたと云う。ちなみに、牧野富太郎没後三年目に、牧野の蔵書四万五千冊が高知県に寄贈され、牧野植物園に牧野文庫が出来た時に詠んだ、「はるばると南国土佐に帰ります父の御霊の五万冊」等がある。

牧野富太郎は、昭和32年に、数え年96歳で没するが、病臥する前の94、5歳頃まで、得意とする都々逸(七七・七五)を、遊びの道具としていた。牧野が親友に、上の句(七七)を送って、下の句(七五)の返事を待つという粋な遊びを盛んに嗜んだ。牧野が92歳頃、気を許していた原田三夫へ粋文や末摘花式の川柳も多くあて、時には1日3枚ものハガキを送る事があったと云う。その中にはとても世間に公表出来ないような物も多く含まれていた。

牧野富太郎の歌は、牧野が60歳を超え、学問的にも人間的にも安定した熟年期から最晩年に掛けての物が多かった。牧野は、日記や自らの著書、そして、各地での揮毫、旅先から友人に宛てた書簡の中に、情歌を時折忍ばせる事があった。

筆者の印象ではあるが、歌の中でも興に乗じて詠んだ七七・七五調の都々逸は切れが良い。また、五七五・七七調の和歌には心を打つ人情歌が多く存在している。俳句や川柳のような五七五調の歌は参考になるが、聞き入る程の物は数少なく、趣もない。ただ、「梅を見て殊更ひねる下手俳句」だけは、皮肉にも強く印象に残る。また、それらの歌は実写により詠じたものは数少なく、知識や頭脳で作られた植物観察句(解説句)的な物が多く見られ、植物歌や俳句と言えるものは少なかった。この傾向は晩年に成るにつれて増幅されている。そして、最晩年は郷里である高知県佐川町への帰郷を熱望し、幼少期過ごした記憶と思い出により回想を度々繰り返していたようである。その回想録を歌仕立てにしたものが多く見られる。

植物歌が少ないのは、草木や花を目の前にしても、牧野の心には情緒が存在しなかったのではないかと思われる。どうも牧野富太郎は学問的に植物を愛した方が強いように疑問を感ずる。その証拠に牧野自身、「私は植物の種類を専攻していますが、未だ嘗(かつ)て俳句と連絡させて之れを味うた事は一向にない」(『植物集説 下』)と述べている。また、木村陽二郎は、牧野にとって植物は全て植物学者の研究の為に存在すると思われていた。更に伊藤洋は、牧野がランの群落を見つけると50株も60株も掘り採った。時には種の絶滅さえ危惧されたと云う。その点において小野幹雄は、牧野標本には重複標本が多い。牧野は遺伝学や生態学を考慮せず、植物学を分類学でしか見ない面があったと云う。

以上の事からも分かるように、いくら許可済みの行為としても、牧野が自然保護を訴える一方、高山植物の濫獲に近い行為を取った事からも先の疑問が窺えるのである。

「植物の精」が好んだ自作の歌

牧野は幼い頃から自然界を好み、数多くの草木に触れて来た。そして心楽しく日々を送り、人間社会から受けるストレスを癒すために、植物を長年の「心友」として、「師匠」として、「恋人」として、それらの存在する自然界に親しむことで、牧野は心豊かな人生を送ろうとしたのである。牧野を象徴した代表的な歌は、次の二つで最も有名である。また、牧野自身もお気に入りの歌で、自宅の床の間にも、都々逸「草を褥に木の根を枕 花と恋して五十年」と、和歌「朝夕に草木を吾れの友とせハ こゝろ淋しき折ふしもなし」との二幅を掛け、それを背に仕事に励んでいた。牧野を研究する者であれば、一度は耳にした事のある歌であろう。また、現存する牧野揮毫の品の中でも極めて数多く、色紙や書幅として現代に残こっている。

  • 草を褥(しとね)に木の根を枕 花を恋して五十年
  • 朝夕に草木を吾れの友とせばこころ淋しき折ふしもなし

昭和2年11月、札幌からの帰途、仙台で見つけた新種の笹に、「スエコザサ」と命名した。牧野邸はそれが繁茂し藪となっていた。牧野がしばらく眺めていると、苦労を掛けた妻の事が忍ばれた。妻壽衛が亡くなったのは牧野が理学博士の学位を受けた翌年、昭和3年2月23日の事であった。時に牧野富太郎67歳、妻壽衛病没享年55歳。2年前にやっとの思いで家を建てたばかりであった。13人の子供を抱え、長い困窮を極めた生活の中にあって、生涯牧野の研究に自らの欲望を抑えつつ、支え続けてくれた妻へ深謝し、次の歌を記念歌として詠んだのである。

  • 家守りし妻の恵みやわが学び 世の中のあらん限りやスエコ笹

牧野寿衛の墓(天王寺墓地)

牧野寿衛の墓(天王寺墓地)

心残りの牧野富太郎は妻壽衛の死後、中々その死を受け止めることが出来なかった。「壽衛、お前は亡くなったが、この世がある限り、お前に代って、このスエコザサは繁茂するから、ゆっくり休んでくれよ」と、嘆いたのであろう。生活苦を乗り越え献身的に支え続けてくれた妻に対して、これまで植物学の研究を継続できた喜びと感謝の気持ち、そして、「これからは、それがもう出来なくなるのだなー」と嘆く気持ちが離れて仕舞うからである。東京谷中霊園内の天王寺墓地にある牧野富太郎の墓碑の脇に並んで建つ壽衛の碑に先の句が刻まれている。

牧野の歌の中に、人生の浮き沈みの瀬を詠み込んだ、「沈む木の葉も流れの具合浮かぶその瀬もないじゃない」がある。苦労や困窮する毎日の「沈む瀬」に対して、昭和12年1月に朝日文化賞を受賞した時、戦後の昭和21~3年の仕事が充実した安泰期や皇居に参内して昭和天皇への植物の御進講、そして、昭和25年10月の日本学士院会員に推選された時には「浮かぶ瀬」として、同じように詠じている。筆者この歌は誰しもが持つ人生訓のようで、牧野の歌の中でも非常に惹かれる歌の一つである。

  • 沈むその葉も 流れのぐはひ(わい) 浮む其(その)瀬乃(の) 奈(な)いじやない

牧野富太郎は、僕の植物名は、「鵜の目鷹の目草(ウノメタカノメソウ)」だと云う。その命名は東京植物同好会の人々が付けた名であった。それは、何しろ牧野が植物を採集する時は、普段の優しい眼が異様に輝き、目の色を変えて探す。その仕草が鵜の目鷹の目になると云う故事に因んだものであった。牧野等は次の「植物採集行進歌」を作っている。全五首の内、元歌三首は常谷幸雄が、その修正を本田正次が行い、末二首を牧野富太郎が作った。

  1. 根掘り片手に胴籃(どうらん)さげて、今日は楽しい採集よ、採つた千草(ちぐさ)の優しい花も、やがて知識の實(み)を結ぶ
  2. 國(くに)の為なら草木も採れよ、君は一本 僕二本、積り積つて腊(おし)葉(ば)の山が、末は御國(おこく)を輝やかす
  3. 異國(いこく)に誇る草木の數(かず)よ、すべて知らねば國(こく)の恥(はじ)、心一つに力を合は(わ)せ、調べ上げましょ我(わ)がフロラ
  4. 多き草木を原料(もとで)に使ひ(い)、産業工業盛んに起こし、民(たみ)の暮しを一層善(よ)くし、國(くに)の富(とみ)をも殖(ふや)しましょ
  5. 草木可(か)愛(わい)の心をひろめ、愛し合(あ)ひ(い)ましょ吾等同士(どし)、思ひ遣(や)りさへ(え)この世にあらば、世界(せか)や平和で萬々(ばんばん)歳(ざい)

山野にある植物の中には、食用植物、薬用植物、染料植物もある。道端にある雑草についてもこれらの知識を持てば、親しみも深まり、一生涯を豊に出来ると「植物の精」牧野富太郎は云う。

  • 結網(けつもう)は何(ど)んな草でも直ぐ判かり
  • 頭腦(くら)の中仕入れの草木數知れず 幾(いく)ら賣(う)つても品切れはせず

牧野富太郎は、普段は老や翁と呼ばれることは勿論、自ら揮毫の際そのような字を用いる事をすごく嫌っていた。ただ、牧野は生涯ハゲイトウの様で在りたいと望み、敢えて「老少年」と書に雅号と共に書き添える事があった。「老少年」とは、ハゲイトウの葉は初めのうちはあまり綺麗でないが、晩秋になると上部が一番綺麗になる。学名をアマランサスといい、「萎れない」や「色あせない」の意味を持つ。その事から中国人即ち、『大和本草』では、ハゲイトウを「老少年」と名付けたと牧野は云う。つまり、いつまでも赤々と燃える葉は、枯れぬ不老不死を意味し、その粘り強さと自らの晩年とを重ね合わせていたのである。牧野富太郎の生涯は、「草を褥に木の根を枕 花を恋して九十年」と、植物に明け植物に暮れた生涯で、いつまでも老いぬ童顔童心の「老少年」であった。晩年は次の歌が口癖であったと云う。

  • 憂鬱(ゆううつ)は花を忘れし病気(やまい)なり
  • 学問は底の知れざる技芸也(ぎげいなり)
  • 綿密(めんみつ)に見れば見るほど新事実

伊藤圭介像(名古屋市鶴舞図書館)

伊藤圭介像(名古屋市鶴舞図書館)

牧野富太郎の人生を顧みると、号を「結網」として、20歳の時、抱懐して書いた「赭鞭一撻」の精神をその後忠実に実行する事で確たる方向性を導き出した。そして自分自身を「植物の愛人」として生まれ、あるいは「植物の精」と呼び、日蓮のような偉人ならば、草木を本尊とする宗教を建てることが出来たと憚らなかったのであった。

  • 草を褥(しとね)に木之(の)根を枕 花と恋して九十年

99歳の長寿を全うした師匠でもある本草学の泰斗、伊藤圭介翁を意識していた。学者は死ぬまで日夜孜々として学問を研鑽する義務があると、最後まで頑張っていたが、どうやら、百歳までの道のりが段々険しくなって来た事を自ら覚っていたようだ。

  • 花あれバこそ 吾も在り
  • 百歳に路尚(な)ほ(お)遠し雲霞

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