著者紹介 / 牧野富太郎研究所

植物学者・牧野富太郎に関する人物研究、および伝承を目的としています。

著者紹介

わが雅号「蚕子」とペンネームの由来

養蚕は、4000年前から行われ、絹糸を採る文化は、中国から世界に伝わった。日本には、約1800年前の弥生時代に中国から朝鮮半島を経て伝わって来たものだと云う。八世紀初期(奈良時代)に成立した『古事記』や『日本書紀』の日本神話においては、神の死体(頭部)から蚕、繭、桑が生じている。

人間は桑を育てて蚕に与え、蚕は人間の欲する絹糸を吐き、それで衣服を作る。蚕は蛾の幼虫で野生に棲息する野蚕(桑子・桑蚕・クワコ=蚕の原種と言われる蚕蛾)の中から厳選した物を徐々に品種改良し造り出した家蚕(蚕・カイコ)は、野蚕と性質や形も違っている。人間は野蚕から家蚕に、より高い品質を求め、長い間時間を掛けて進化させて来た。家蚕は屋内で人間に管理されながら人間と寝食を共にし、我が子のように手厚く育てられる。蚕は人間が桑の葉を与えるまで大人しく待っている。交尾も人間が相手を与える。このように人間を信頼し依存するので、養蚕は、「昆虫の家畜」と呼ばれるのである。

雌の蛾が生んだ卵を「蚕種」と云い、古くは、それを産み付けた種紙を布に包んで、女性のお腹で暖め孵化させたと云う。腹で動きを感ずると「孵化」(ふか)で、孵化した幼虫を「毛蚕」(けご)と云う。近代は家蚕として人工孵化技術により、春夏秋冬に人間の思うままに孵化できる。孵化した毛蚕は宝物を扱うように種紙から掃き取って他の紙に移す。この作業を「掃立て」と云う。幼虫は桑の葉を食べ脱皮を繰り返し成長した幼虫は、8の字を書くように連続的に糸を吐き出し自らを包むように繭を作る。繭を作ることを「営繭」(えいけん)と云う。繭は、一本の糸で出来ていて、直径0.002ミリメートルと極めて細く、1500メートルの長さにも達すると云う。

繭の中で脱皮した蛹(さなぎ)は、そこで「羽化」(うか)し、押し開けて外に出て来る。蚕蛾(カイコガ)の成虫は、飛べなく、その付近にいるのだと云う。そして間もなく人間が用意した相手と交尾し、雌は抜け出た繭に卵を産み付け、一般的に500個位産卵する。一個の卵の大きさは、幅1ミリメートル、厚さ0.5ミリメートル、長さ1.3ミリメートルの楕円形である。その後人工孵化させるため、蚕室を25度で管理する。孵化したばかりの毛蚕のことを、一齢幼虫と云う。そして桑の葉を食べ成長し、一回目の脱皮を行う。これが二齢幼虫で、これを四回繰り返すと、五齢幼虫となり、蔟(まぶし=繭形成のための足場の事で、藁を折り曲げたり、板紙を井桁に組んだりした養蚕具)に入れる。これを「上蔟」(じょうぞく)と云う。やがて桑の葉を食べなくなって繭を作り始める。これが「蚕の一生」である。人工孵化の技術により、人間が思うままに、春蚕、夏蚕、秋蚕、晩秋蚕の最大四回の繭を産する事が出来るのである。

現在「蚕」の字は、「蠶」の省略字とされている。「蚕」は、「蠶」とは別字で、本来「みみず」の意味であった。「蠶」は、「朁」(妊=はらむ・の意)、「䖵」(昆虫の意)とから成り立ち、「糸をはらむ昆虫(かいこ)」の意味となる。古代我が国では、蠶(蚕)は「コ」と呼び、「子」や「児」の意味に用いて来た。即ち蚕(カイコ、カヒコの語源は、家に飼うコ(仔虫)の意味で、「飼う蚕」が転じてなったものだと云う。

日本各地におけるカイコ(蚕)の方言名は様々で、歴史ある昆虫なのである。例えば、アトト、ウスマ、オコ、オコドノサマ、オコモデサマ、オサナモノ、オシナモンサマ、オシラサマ、オヒメサン、オボコ、オムシ、クワゴ、コガイ、コガイサマ、コドノサマ、コナ、コモジョ、コモゼ、シロサマ、トードコ、トトコ、ヒメコ、ボコ、ボコサマ、ボボー、マンムシ、ムシ、ムシカー等が存在すると云う。筆者が小学生であった昭和四十年頃、越路町来迎寺(現・長岡市来迎寺)の農村では、「ボコサマ」と呼んでいた。そして頂いて飼育したこともあった。コの敬称オコ(御子または御蚕)に、更なる敬称「様(神様)」を付加し、「御子様=オコサマ」が「ボコサマ」に転化したものと筆者は考えている。

繭から採れた糸は貴重で、それで仕上げた絹は、軽くしなやかで、非常に強く、光沢があって美しい。また、汗を能く吸い取る性質を持つ。蚕は捨てる所が一つもないと云う。蚕糞は肥料や家畜の飼料となり、化粧品にもなる。繭は絹糸に、蛹は食品や鯉の餌に、そして蛾は医薬品になると云う。雄の蛾の佃煮は、癖が無く美味しいと云い、幼虫をも食する地方があったと云う。

養蚕の歴史は古く、世界経済を動かす重要な産業であった。蚕の飼育は手間の掛かる昆虫の家畜として桑と共に品種改良されて来た。しかしながら、これから得られる絹糸は貴重で、蚕の生涯はどのプロセスも無駄にする所が一つもない。

これまで見て来たように、蚕は偉大である。筆者は30歳前半より、蚕の生涯に魅了され、「蚕(さん)」を自らの号として用いて来た。以来人間社会発展のために、蚕のように小さく輝き、無駄なく価値高い仕事をするべく生涯を貫く事を心に秘めたのであった。その者の名声は生涯低くとも、繭の中の五齢幼虫の如く美しき糸を吐き続けたく自らの信念を全うするものである。そして生まれたばかりの「蚕の子」を「毛蚕」(幼蚕・ちご)と云うが、これから生まれ来る毛蚕と比すれば、我が方が既にこの世に命を受け、実社会に暮らすが故、吾は毛蚕(幼蚕)に非ず。しかしながら、「蚕」と号するには、57歳にして未だ早過ぎ。幾つになっても吾は修行の身、蚕は崇高にして我が生涯「蚕」に及ばずと悟ったのである。即ち、これよりは、「蚕子」(こし)と号し、我が繭を完成し蛾に生まれ変わるまで生涯学びこそを礎にして、ここに「學ビテ心開ク」を座右の銘とする者である。また、蚕子が暮らす質素で小さな住まいを、「蚕子庵」(こしあん)と呼ぶ。

執筆の都合上、蚕子の「コシ」より、「漉」(こす)を用い、「漉川」(こしかわ)の姓(仮の姓)とし、カンアオイ(寒葵)という植物をこよなく愛する人、即ち「葵人」(きじん=別号)の名を組み合わせ、「漉川葵人」(こしかわきじん)の筆号(ペンネーム)を用いる場合もある。

蚕子庵

2013年3月18日     蚕子

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